「正しい」判断とは

蓮見 和章

 こんにちは、広島事務所の蓮見です。
 先週末、青森で日本弁護士連合会(いわゆる日弁連)の集会に参加しました。東北地方での開催ということもあり、例えば震災で親を亡くした子どもに対する未成年後見の問題点(未成年後見に関しては今国会で改正事項を審議中ですので、後日あらためてテーマとさせて頂きます。)や、震災に関連して立法化するべき法案など、震災に関する議論もなされ非常に有意義な集会になりました。私は道中被災地にも立ち寄ったのですが、映像で見るよりも生々しく凄惨な被災地を見て言葉を失いました。被災時にこの現場にいた方々のことを思うと言葉にすることもはばかられる気がしますが、改めて幸運にも生かされている立場として被災地の復興のために出来ること考えそれを実践していきたいと思いました。
 そんな中、今朝の朝刊で震災に関連するこんな記事がありました。
 
「福島地検検事正更迭、震災後の容疑者釈放問題に」

 実は、震災当日の3月11日から16日にかけ、福島、仙台両地検は、警察の施設に拘留中だった容疑者ら58人を釈放しており、これまで検察のお上である法務省は苦言を呈していました。今回の人事が実際に更迭なのかはわかりませんが、釈放した容疑者の中では再び事件を起こし逮捕されたものもいるようで、大震災の中で治安を悪化させたということの責任を取らされたとマスコミは見ているようです。
 容疑者の釈放を考える前に、容疑者の身体拘束について簡単に説明させていただきます。まず、容疑者はあくまで容疑者であって、裁判を受けて刑に服している受刑者とは違いますので、大原則として裁判にかけない状態での長期の身柄拘束は許されません。ただ、容疑者を拘束したままで捜査を行い、容疑事実に間違いはないのか、間違いないとして裁判にかけるべき事件なのか判断する時間も必要になります。そこで、刑事訴訟法は、容疑者の身柄拘束について、主に捜査を行う検察官に最大で20日間容疑者を勾留することを裁判所に請求出来るように定める代わりに、検察官にはその間で処分の決定に必要な捜査をしっかりやって処分を決めるように定めています。捜査の為に身体拘束するわけですから、検察官は処分に必要な捜査が終了したと判断すれば、勾留中でも被疑者を釈放する権限を持っており、実際検察官は必要な捜査や取り調べが終われば、容疑者を勾留の途中で釈放することもあります。
 報道によれば、今回福島、仙台両地検は、「容疑者の身体の安全確保、被害者や参考人を呼び出しての事情聴取が困難になった」として「軽微な事件の容疑者を釈放した」そうです。
 逮捕された容疑者にとって、身柄を拘束されるか否かは大きな問題です。特に身近に震災が起きたとなれば、家族や友人の安否も気になるでしょう。悪いことをしているのだから身柄を拘束されるのは当たり前だとお思いの方もいるかも知れませんが、前述のとおり勾留は罰として身体を拘束するものではなくあくまで捜査の必要性がある場合にのみ認められるものです。震災の影響で勾留する最長20日間の間に十分な捜査が出来ず、その後裁判をしても禁固や懲役となる可能性がない事件であれば、勾留する必要はないのであって、その意味においては福島、仙台両地検の判断は結論としては間違っていないように思います。

 ではなぜ今回の釈放がこれほどまでに大きな事態になったのかといえば、もちろん釈放した容疑者の中で再び犯罪をしたものがいて周辺住民に不安を与えた、通常ならば釈放しないであろう事件の容疑者も釈放した可能性がある等の事情もあったと思いますが、一番大きいのは警察との関係が悪化してしまったことだと思います。
 今回、福島地検のある支部では、容疑者のいる警察署との十分な協議をせずに釈放手続きを行い、しかも被災直後ではなく原発問題が明るみにでた後に釈放手続きを開始し、釈放後に地検の庁舎を一部閉鎖するなどしていたことから、捜査の必要性よりも検察庁自体の業務を考えて容疑者を釈放したのではと福島県警から強く批判されたそうです。検察としても警察側からの批判を受け、周囲への配慮を欠いた行動に対して苦言を呈する必要性があったのではないかと思います。現に法務大臣も「(釈放が)違法と言うわけではないが、関係各庁との調整も十分に出来ておらず、住民にも不安を与えた。」というコメントをしています。
 検察と警察の関係に関しては、いろいろ複雑で難しい側面もあると個人的には思います。ただ、判断自体は間違っていなくても、その判断が本来の趣旨からはずれて利己的な判断であったり、周囲の理解を得ずに下した判断であれば、その判断が非難の対象となるのはある程度仕方のないことだと思います。その意味では今回の福島地検の判断は「正しい」判断では無かったのかもしれません。
 私達弁護士も、緊急時に依頼者のために速やかに判断しなければならない時があります。たとえその判断が間違っていないと思っても、その判断が真に依頼者自身の為になるものか、そしてその判断は依頼者の理解・納得を得て(あるいは事後的に得られるものとして)なされるものなのか、常にそのことを考え、「正しい」判断をしなければならないと改めて感じた記事でした。

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