被告人の社会的評価

蓮見 和章

 こんにちは、広島事務所の蓮見です。

 いよいよスポーツの秋を迎えますね。この季節になるとプロ野球やJリーグの優勝争い、タイトル争いのニュースが多くなります。広島では、カープ、サンフレッチェとも好調をキープしていますので、どこか街全体がそわそわ、わくわくしている感じがします。結果はどうあれ、ロンドンオリンピックに引き続き地元を盛り上げる熱い戦いをして貰いたいものです。

 さて、ロンドンオリンピックといえば、過去2大会で金メダルを獲得した某選手の刑事事件初公判が昨日ありましたね。
 罪名は準強姦という、お酒等を飲んでいて心理的物理的に抵抗できない状態の女性に対して姦淫行為を行ったという罪です。

 ニュースによれば、某選手は、酔っぱらった教え子の女性部員とともにホテルの部屋に入り、行為に及んだとのこと。某選手は、行為に及んだことは認め、ただ、女子部員の承諾があったと主張しているようです。

 となると裁判の主な争点は、①女性の真意に基づく承諾があったかどうか、②仮に無かったとして、某選手が女性の承諾があったと誤信していたかどうか(つまり犯罪を犯す故意があったかどうか)という点になりそうです。

 大体この種の事件は密室で行われることが多いので証拠が少ないケースが多いです。刑事事件の事実認定の大原則をすっとばしてかなりわかりやすくいうと、このようなケースでは、食い違う当事者の話のうち、どちらの言い分が信用できるかという点について裁判所が判断していくことになります。

 ただ、今回女性は自分は酒に酔って酩酊していたと主張している訳ですから、その女性が話す行為当時の状況を裁判所がどう評価するのかという点は単純な強姦事件とは違うと思いますのでその辺りの裁判所の判断の仕方も注目してみようかと思います。

 ところで、裁判が終わるまでは、某選手はあくまで被告人として訴えられているだけで、無罪の可能性は当然否定できません。「不倫している奴なんだから強姦しているに違いないとか」「強姦しているのに反省の色も全くなくけしからん」等の印象を持つ方もいらっしゃるかもしれませんが、不倫行為をしている人が皆犯罪者であれば今より多くの方が捕まっているでしょうし、裁判で無罪主張する場合はどうしても反省の色を出すことは難しい面もあります。

 刑罰の歴史では、これまで多くの方が実際は無罪にもかかわらず有罪にさせられたり、特定の政治思想をもっているだけで罪に課せられた過去があります。現在はそのようなことはないと思いたいですが、有罪が確定しても犯罪者ではない冤罪すら起こり、その冤罪によって人生が大きく変わってしまった人が現に存在する以上、有罪が確定するまで、たとえ9分9厘有罪だとしても無実を訴える被告人を犯罪者と決めつけて扱うことは許されないと思います。

 人は時に間違える「動物」です。その人が裁くからこそ、刑事手続きは慎重になされるように出来ています。ニュース等をみるとどうしても某選手の悪い部分がクローズアップされているように感じますが、「あいつは悪い事してるから仕方無いでしょ。有罪無罪にかかわらず最低なやつだから。」という考えでは最近話題のいじめの構造とよく似てきてしまうと思います。

 某選手は無罪だとか、不倫が許されるものとかいうつもりは毛頭ありません。当然、家庭を持つ一人の夫として、また未成年に柔道を教える教員という立場として断じて許せない言動もあり、私自身憤りを感じる部分もあります。ただ、人が人を裁くからこそ、結論出るまでは周囲の人間も冷静に対応するべきだと思います。

 被告人の社会的評価のありかたについて、法律家のみならず皆で考えてみるいい機会かもしれないですね。

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